映画『ドールハウス』のラストシーンにモヤモヤした方は多いのではないでしょうか?
人形が戻ってきた理由、メイと人形の入れ替わりの有無、そして「なぜ1週間も音信不通だったのか」など、終盤の描写には明確な説明がなく、観た人によって解釈が分かれています。
この記事では、ラストの意味や伏線、監督の演出意図について、できるだけわかりやすく整理・考察していきます。
※本記事はネタバレを含みますので、未視聴の方はご注意ください。
結論①|「人形=メイの象徴」としてのラストシーン
まず結論から言うと、あの人形は“メイ自身”の象徴と捉える見方が濃厚です。
つまり、マイ(主人公)が人形を“持ち帰ってしまった”のではなく、人形=メイという存在そのものが彼女の心の中に深く刻まれていたことを示していると解釈できます。
マイは一度、人形(=メイ)を“墓に返す”ことで過去と決別しようとしました。
しかし、その想いは断ち切れず、結果として人形が“戻ってきた”ように見えたのは、彼女の内面に残る未練や後悔、あるいはメイへの愛情そのものが“現実に影響を及ぼした”という演出なのです。
つまり、人形が自ら帰ってきたのではなく、マイが無意識にまた“連れ帰っていた”という心理的表現とも考えられます。
結論②|「入れ替わった」のか?入れ替わり説の根拠と否定
一部の視聴者からは、「あれは人形が墓から戻ってきてマイと入れ替わったのでは?」という意見もあります。
たしかに、ラストでのマイの様子にはどこか“別人のような静けさ”や“感情の欠落”が見られ、それが入れ替わりを疑わせる描写にも感じられます。
ただし、明確に“人形が人間化する”描写や“超常的な入れ替わり”を示すシーンは存在せず、あくまで象徴的な演出である可能性が高いです。
監督もインタビューで「入れ替わりを意図したのではなく、あくまで“喪失”と“執着”を視覚化しただけ」と語っていたことから、入れ替わり説はややメタファー寄りの解釈と見るのが妥当でしょう。
なぜ1週間も音信不通だったのか?
1週間もの間、マイが音信不通だった理由についても疑問の声が多く上がっています。
ここについては明確な描写はありませんが、考えられる理由は以下の2つです。
① 精神的ショック・喪失感による“引きこもり”
メイと過ごした記憶、そしてその“象徴”である人形を手放すという行為は、マイにとって強烈な喪失体験となった可能性があります。
一度は人形を埋葬したものの、その重みに耐えきれず、家に引きこもっていたと考えれば自然です。
② 「人形が戻ってきた」ことで、現実感を失っていた
人形が“戻ってきた”ことが現実か幻覚か判断できず、マイ自身が現実世界との接点を失っていた可能性もあります。
この“空白の1週間”自体が、「精神的に壊れていく彼女自身の象徴」とも読めます。
まとめ|『ドールハウス』は“メイの存在”と“忘れられない記憶”を描いた作品
映画『ドールハウス』は、ホラーというジャンルに分類されつつも、単なる恐怖の演出だけではなく、人間の内面や喪失、そして執着といった心理的テーマを深く描いた作品だと考えられます。
結末に登場する“人形”は、単なる物ではなく、マイにとってのメイとの記憶、罪悪感、そして手放せない過去の象徴として存在しています。
マイが一度は手放そうとした人形が「戻ってきた」ように見えるラストは、超常的な出来事というよりも、心の奥底に沈んだ未練や感情が再び浮かび上がってきたことの象徴的演出だと読み取ることができます。
また、1週間という空白期間は、彼女の精神状態が崩れかけていたことや、現実と向き合えなくなっていた時間とも捉えられます。
ホラー映画としての怖さだけでなく、「人は本当に過去を忘れられるのか?」「後悔や執着はどうやって克服するのか?」といった深い問いを投げかける作品だったのではないでしょうか。
ラストで人形とともに静かにたたずむマイの姿は、もはや日常に戻れない“ある種の壊れた心の静けさ”を象徴しているのかもしれません。
観る人によって、恐怖にも悲しみにも見える余韻を残した本作は、多くを語らないからこそ、心に刺さる映画と言えるでしょう。